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2007年10月20日

[詳細]第1回「須磨離宮公園学」開催

第1回 須磨離宮公園の歴史〜花鳥風月のある公園を目指して 〜
講師 神戸市立須磨離宮公園 園長 高畑 正氏

講演は「何故『離宮』公園なのか?」という話から始まりました。

『離宮』は、現在皇室が静養などで使用する御用邸と同様に皇族の方々がご使用になる別邸であり、須磨離宮公園は今上天皇と美智子皇后のご成婚記念公園として整備された公園の1つであることからこの名が付けられたということでした。

さらに公園が辿ってきた歴史に触れ、1945年11月までは皇室の別邸武庫離宮として、戦後は昭1946年〜1956年まで米国進駐軍の射撃場として接収された後神戸市に下賜、1958年にご成婚記念公園として整備が着手され、1967年に正式開園された話がありました。

離宮の整備には、イチゴ栽培の父として著名な宮中顧問官で農学博士の福羽逸人(ふくばはやと)子爵が携わった話がありました。
現在特に離宮公園で有名な薔薇の花との関わりや、日本の施設栽培・印南地域特産のぶどう作りとの縁について、また前身である武庫離宮と大谷光瑞氏との関わりに至るまでバラエティに富んだお話が続きました。

離宮公園があった地は、平安時代(文徳天皇代)に在原行平が須磨で蟄居をした際月見をした地とされており、傷心の行平を支えた地元村長の娘松風・村雨姉妹とのロマンスは、謡曲「松風」や近松門左衛門作の『松風村雨東帯鑑』に歌われています。

また、2008年11月、公式に世に出てから1000年を迎える源氏物語(作者:紫式部)を記念して、京都では「千年紀」が行われますが、源氏物語は「須磨・明石」の2帖が書き出しとされており、縁の地である同園でもプレイベントとして本年の月見の宴を大々的に行い、CP(キャンパス・パーク)連携をしている神戸女子大学学生が平安女性の着衣をイメージ再現した着物ショー「須磨の雅」を行った話などがありました。

現在来年の千年紀に備え、行平縁の月見の松の側にあったとされる傘亭を復元するプロジェクトも進んでおり、京都に負けない須磨ならではの月見の宴の開催にかける熱のこもったお話に、参加者から大きな拍手が贈られ講座は終了しました。

【豆知識 「苺」に関わる日本最古の記録は?】

平安時代の「枕草子」(作者:清少納言)中にある記述とされています。

「梅の花に雪がふりたる。 あてなるもの いみじう美しきちごの、いちごなど食ひたる」

(現代語訳)「梅の花に雪が降るさまや、とてもかわいらしい子どもがいちごを食べているところが優美」

「須磨離宮公園学」を体感!高畑園長による園内見学ツアー

講座の後は希望者による園内見学ツアー。

高畑園長自らがガイドを務め、本日の講座に関わりのある公園内の場所を散策する見学ツアーが行われました。

大学から離宮公園までは高畑園長が先導し、参加者のみなさんと一緒に徒歩で移動。

武庫離宮の面影を残す中門広場からツアーは始まりました。

本日の講座に関わりがある場所だけでなく、離宮公園が誇る多種多様な薔薇についても細やかな説明がありました。

武庫離宮は宮内庁所蔵の設計図を参考に推察すると、現在の噴水広場のあたりにあったと思われます。しかし空襲で建物が焼失し、連合軍に接収されたおり、射撃演習場として改築されたことで現在のような構造になりました。

現在離宮公園では千年紀に向け様々な整備がされており、行平が月見をしたとされる月見の松があったと思われる場所には、「まつかぜや 月は三五夜 中納言(貞室)」と書かれた木製の歌碑がたてられています。

そのすぐ側には武庫離宮時代の名残を留めた傘亭跡があり、復元に向け解説板が設置されました。

上部は戦争中に焼失、現在は松の幹を模したブロンズ製の支柱が残るのみとなっています。千年紀に向け復元をしようと地域の有志が集まり「傘亭を復元する会」(会長:建築家 森崎輝行氏 事務局は離宮公園内)が立ち上がり、神戸女子大学からは事務局長として史学科の梶木良夫准教授と企画委員として梶木典子准教授が参画し活動が行われています。

最後に行平の月見がどのようなものであったのかを体感すべく、月見台の展望台から眼下に広がる須磨の町並みと海岸線を見ながら、来年の 千年紀に復元された傘亭から眺める月見に参加者全員が想いを寄せた楽しい見学ツアーでした。

【豆知識 光源氏のモデルは、平安時代きっての歌の名手「中納言行平」】

紫式部は村上天皇皇女選子内親王が読むための新作の物語を考えるにあたり、石山寺に祈願参籠した折、瀬田川に映る十五夜の月を見ていて構想がひらめき、「今宵は十五夜なりけりと思し出でて」という有名な冒頭の一文を大般若教の料紙の裏に書き記したのが始まりとか・・。それが「須磨・明石」の2帖であり、流された須磨の浦で十五夜の月を見ながら都の管弦遊びを懐かしむ光源氏のモデルとなったのが、古今和歌集に須磨で蟄居をしたことが記されている在原行平であるといわれています。

わくらばにとふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶとこたへよ(古今集) (現代訳)たまたまでも私のことを尋ねる人がいましたら、須磨の浦で海藻を刈っては塩水を垂らしながら、袖を涙に濡らして侘びしく暮らしていると答えてください」


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