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喜多文庫による ひょうごの祭り ―いま・むかし―

神戸女子大学第37回コスモス祭参加

日時平成17年11月12日(土曜日)・13日(日曜日)10時〜16時
主催古典芸能研究センター
場所神戸女子大学図書館四階グループスタディ室

喜多慶治氏について(1901年〜1992年)

明治34年(1901年)生まれ。東京商科大学(現 一橋大学)卒業後、実業界に入る。会社の第一線を退いてから、民俗学の方面に情熱を注ぎ、各地に民俗芸能をつぶさに見てまわった。その心血を注いだフィールドワークの記録が、神戸女子大学古典芸能研究センターに所蔵されている。

詳細なフィールドノートと膨大な写真資料がその内容で、そのうちのスライドについては、画像データベースとして神戸女子大学のホームページで公開されている。このような公開が可能になったのも、喜多氏が撮影日時、撮影場所等のデータを明記して、きわめて整然とした形で整理をおこなっていたからである。

フィールドワークの兵庫県に関する成果は、1977年に刊行された『兵庫県民俗芸能誌』(錦正社)に集約されている。千頁近い大著に収録された兵庫県各地の民俗芸能は、すべて喜多氏が実際に足を運んで実態調査をおこなったものであり、きわめて資料価値の高いものとして学界で評価されている。

喜多氏の足跡は兵庫県にとどまらず、全国各地に及んでいる。今後、神戸女子大学で、写真資料とフィールドノート、そして現在の伝承を突き合わせる作業を進めることによって、その仕事の価値はますます明らかになってくるものと思われる。

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喜多文庫について

平成4年、喜多慶治氏の民俗学関係資料が本学図書館に寄贈され、喜多文庫と名付けられた。喜多文庫は、全国各地の芸能を撮影したスライド9,381点、カラーネガ11,939点と白黒ネガ28,700点、現像された写真、喜多氏による調査記録のノート等から成る。喜多氏自身が、昭和30〜40年代を中心に、日本全国各府県を実地調査した際の調査資料であり、現在では廃絶もしくは変形した行事・芸能も記録している点で、貴重である。

平成10年、スライドの画像劣化を補正し、デジタル化を行った。平成12年に到って、スライドのデータベース化とインターネットによる公開、および『喜多文庫民俗芸能フォトCD目録』を作成し、関係方面へ配布した。平成13年には、これらの写真による写真展「阪神・兵庫の祭礼行事」を開催した。スライドに引き続き、カラーネガ・白黒ネガも順次デジタル化中である。

現在、古典芸能研究センターでは、ネガのデジタル化と合わせて、喜多文庫に収められた様々な資料の包括的な整理に着手している。今回、喜多氏撮影の白黒写真(一部カラー)に、氏の調査記録をあわせて展示をし、その途中経過を報告する。

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テーマ(1) 喜多慶治氏の現地調査 ―昭和37年1月―

喜多氏の民俗芸能調査範囲は日本全国に及ぶ。また、祭りが多く開催される1月や10月などは、連日各地へ調査に出向かれたことが、残された調査記録から伺える。それだけでなく、同一日に催される複数の祭にも、時間が許す限り足を向けられている。ここでは、その調査のありさまを、昭和37年1月を例に示してみる。

3日
多賀神社(滋賀県犬上郡)翁始式→妙法寺(神戸市)鬼追
4日
住吉大社(大阪市)踏歌祭→明王寺(神戸市)鬼追
7日
轉法輪寺(神戸市)鬼追→勝福寺(神戸市)修正会
8日
鶴林寺(加古川市)鬼追
11日
日輪寺(神戸市)鬼追
13日
杭全神社(大阪市)田植神事
14日
伊豆神社(長野県南伊那郡)雪祭
20日
大江天満宮(福岡県山門郡)幸若舞
24日
大丸百貨店(大阪市)東北地方民俗芸能
28日
近畿民俗学会例会
a)妙法寺鬼追
場所神戸市須磨区妙法寺字奥妙法寺
祭名妙法寺修正会の鬼踊
祭礼日1月3日

東播磨地方には鬼追と称する行事がかなり密度高く現行されている。追儺とも呼ばれていて、多くは天台、真言宗派の寺院の祈年の法会に託して行われている。このことは、寺院が建立され村ができたという、優婆塞を前衛とした荘園開拓史につながっている。鬼追には多分に農耕予祝の要素が入っていて、罪業の懲罰を受ける鬼から、大地を踏み轟かせて精気を蘇らせる鬼に変身している。妙法寺の鬼踊は、そのなかでも古習を残したものである。鬼役は太郎鬼、次郎鬼、くじり鬼(これらを総称して「白鬼」という)の3人、じか鬼(「黒鬼」とも)5人および子鬼2人。この日、寺では牛王宝印を押したお札を挟み込んだ牛王杖(福の棒とも)を参詣人に授与する。農家ではこれを戴いて苗代田に挿し、商人は神棚に祀る。また松明の燃え屑はこれで粥を炊くと病気にならぬというので拾って帰る人がある。(『兵庫県民俗芸能誌』より)

b)明王寺鬼追
場所神戸市垂水区名谷町名谷
祭名修正法会の結願追儺
祭礼日1月4日

鬼役を勤めるのは在住の檀家に限られており、鬼役には42歳の厄年の男3人がなる。子鬼は大たい小学校の上級生で、やはり滑の者に限るが転住者でもよい。面をつける鬼役は「ばば鬼」「太郎鬼」「次郎鬼」の3人、ばば鬼は青、他の二鬼は柿色の鬼衣、勁綯の縄で鬼綱を掛け、藤蔓の鬼絡みをする。だぶだぶの足袋、草鞋ばき、三つの面はそれぞれ特徴のある素晴らしい面で、ばば鬼は最も大きく、一番大事にしていて「天照大神」ともいう。4人の子鬼は面なし、紙垂を無数につけた赭熊を被り、長さ70㎝位の柳の杖を持つ。火番は次々と鬼役に補給する松明の元火を守り、同時に踊場やその周辺に飛び散る松明の火屑用心のため絶えず撤水する。(『兵庫県民俗芸能誌』より)

c)勝福寺鬼追
場所神戸市須磨区大手町
祭名修正会結願法要鬼追
祭礼日1月7日(昭和35年を最後として廃絶)

かつては地元の村人が鬼追を勤仕、後に勝福寺の檀家から大手町の青年会に頼んでやってもらい、4人の子鬼は檀家の子供のうちから選んでいたが、鬼になるものがなくなり、昭和35年度の所演を最後として絶えた。大鬼5人、法螺貝3人、太鼓1人、子鬼4人、大鬼と子鬼は全員樺色の麻布鬼衣、白の細裂で手足胴を鬼絡みにし、径15センチメートル位の詰物をした白袋を褌に包んで下腹に吊し、茶色の涎掛と前垂をする。赤鬼は松明と斧、青鬼は松明と槌、黒鬼は松明、天狗は槍、白鬼は松明を持つ。子鬼は面なく、赭熊を被り、色紙を綾巻した長さ1メートル位の棒を持つ。(『兵庫県民俗芸能誌』より)

展示した写真は昭和34年のものである。昭和37年調査ノートには

立ち寄ってみたが、今年は鬼は出ないらしいという話であった。(中略)今夜は法会は勤めるが鬼は出ないという。どうやら鬼の伝統を守って行く檀家の人々がもはややれなくなったらしい

との記述がある。

d)轉法輪寺鬼追
場所神戸市垂水区名谷町中山
祭名修正会結願の追儺式
祭礼日1月7日

ばば鬼、太郎鬼、次郎鬼は中山在住の檀家中厄年(37歳から43歳)に当たる男子3人が勤め、子鬼役4人は中山在住の10歳前後の者が勤める。ばば鬼は青色の鬼衣をつけ、青白二筋の細布を縒った鬼綱で胴を三巻して襷に掛け、青布の褌をする。右手に長さ1.6メートル位の木製の槍を持ち、廻廊より外陣へ入る所で介添人より受け取った松明を左手にかざす。太郎鬼は、茶色の鬼衣、茶白二筋の鬼綱、赤茶色の褌で、右手に木製の斧、左手に松明を持つ。次郎鬼は、白の褌以外は太郎鬼と同じ服装である。転法輪寺の鬼役は総じて、前方が見えてはいけないという。ばば鬼の場合、眼孔が刳っていないので、全く松明と槍先で手探り同様であるが、前後の者の反閇の踏音を聞き分けて、摺り足で踊るという。参詣人は松明の燃え屑2本を拾って、寺から受けた牛王の御符を挟み、鬼から貰った「はな」をその先につけて、つぶれないように更に藤蔓で結わえて持ち帰る。そして、春に苗代を作るとき、これをその水口に立てる。(『兵庫県民俗芸能誌』より)

e)鶴林寺鬼追
場所加古川市北在家
祭名修正会法会
祭礼日1月8日

鬼面は赤青の二面。鬼役は地元の安田地区在住の青年2人。もとは一度鬼役となると、毎年頼まれて随分長い間やらされたが今は3年で交替する。赤、青の色分けにした小紋散らしの鬼衣、鬼綱をしめ、白手袋、白足袋、草鞋ばき、赭熊を被る。赭熊は藤蔓をよく叩いてさらし、柔らかく解かしたものを赤、青に染めてある。被って腰まであるロングヘアである。赭熊の上から赤青の鬼面をつける。持物は赤鬼は左手に斧、右手に松明、槌を背負う。青鬼は長さ2メートル位の木製の鉾を持ち、踊るときは両手で構える。松明は持たない。他に子鬼4人、12、3歳の少年、赤2人、青2人。鬼役と同じ服装。但し、手袋、鬼綱はなく、面はつけない。2メートル位の樫の塗棒を持つ。内陣巡りは7回半。7回半廻ったところで赤青両鬼は子鬼を引き連れて、内陣左側隅の鏡餅の吊ってある柱の下に集まり、餅切をする。(『兵庫県民俗芸能誌』より)

f)日輪寺鬼追
場所神戸市垂水区玉津町新村
祭名寺おこない
祭礼日1月11日

(昭和40年頃鬼講の解散と共に途絶えた)

面には青鬼、赤鬼、黄鬼の3面がある。鬼は前後5回出る。毎回まず子鬼の堂巡りに始まり親鬼の出現となる。親鬼の踊が済んで再び子鬼が出て、同じ色の鬼衣の者同士が向き合い、棒をやや斜めに構えて床を打ち、一旦堂裏へ退場する。第1回および第2回の親鬼は、黄鬼、赤鬼、青鬼の順に出る。最初黄鬼と青鬼は柱に松明を叩き付けたりして一寸暴れるが、赤鬼が外陣の中央に進み、黄鬼、青鬼が左右に一列に並ぶとその場で反閇を踏む。赤鬼は持物の斧と槌を左右の手に、それぞれ逆手に持って構え、まず内陣の方正面に向き、膝を深く屈めると同時に、両手を前に押し、斧と槌を斜めに構える。この所作を四方の繰り返し、終わると、そのまま反閇を踏みつつ、堂裏へ退場する。第3回目の出場には親鬼役が交替して厄年の者が親鬼役を勤めた。このとき餅割があった。正面の賽銭箱の上に置いた一重ねの鏡餅に赤鬼は持物の斧と槌を同時に打ち降ろす。その間、黄、青鬼は外陣左右の位置に直立して松明を掲げるだけであった。第4、5回目は、第1、2回目の踊りの繰り返しで、鬼追が終わると、講の世話人が鬼と共に堂縁から餅撒きをした。(『兵庫県民俗芸能誌』より)

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テーマ(2) ひょうごの祭り ―いま・むかし―

喜多氏が民俗芸能の調査をされたのは昭和33年頃からである。兵庫県内の調査は随時されていたようであるが、集中的に調査を行うようになったのは昭和45年後半かららしい。そして、その調査の成果が著書『兵庫県民俗芸能誌』(1977年刊)となるのである。

喜多氏の調査から三十年以上を経た現在、氏が調査された民俗芸能の中には、後継者が無く途絶えてしまったもの、現在も続いているが時代の流れと共にその形が変わったものがある。一方、三十年以前と全く変わらぬ姿を今にとどめているものもあろう。喜多氏の調査の後を追うこともまた、喜多文庫を顕彰する上で必要な作業であると考えている。

ここでは、2005年に古典芸能研究センターが調査した伊勢の森神社の梯子獅子、朝光寺の鬼追、太山寺の練供養、海神社の秋祭の写真を喜多氏撮影の写真と比較できるよう展示する。

a)伊勢の森神社梯子獅子
場所津名郡津田町中田(現淡路市中田)
祭名伊勢の森神社春祭り
祭礼日4月第2日曜

4月11日、当日は村人達は祇園囃子の練も賑々しく、三台の檀尻を神庭まで曳きあげ、神前で獅子舞を奉納する。獅子舞には二庭ある。「下獅子」と「梯子獅子」である。当番組が必ず奉納するのは下獅子であって、これは祭礼当日の晴雨に拘わらず神前で舞う。これに対して梯子獅子は余興的な演技であって、江戸末期に新たに導入されたもので、人員構成や天候の条件で、演る演らぬは当番組の都合次第である。昭和46年度の一番組は久しぶりに可なり大掛りに梯子獅子を復興したようである。(『兵庫県民俗芸能誌』より)

(昭和46年)4月11日
志筑から中へ行く路の途中で祭礼のための車止メの道標があってそこで車を降ろされて、神社まで、たっぷり3キロメートルはあった。見るからに静かに晴れ上った山村の風景につゝまれながら、祭りに行く人達に混じってうららかにその道を歩いた。狭い谷がつまって、山懐に入ろうとする。そのどんづまりの所に神社がある。山桜が満開である。(喜多慶治調査記録ノート22より)

2005年4月10日、伊勢ノ森の神社周辺には、喜多氏のノートに記されているままの風景が広がっていた。天候までが34年前と同じである。そしてやはり山桜が満開であった。正午に始まった下獅子は、社前に広げられた青いシートの上で繰り広げられる。喜多氏の写真にはない様子である。下獅子終了後場所を移して梯子獅子が始まる。観客の歓声の中次々と演目が進んでいく。それは、喜多氏のノートにある通りであった。ただ、喜多氏が調査されたときには獅子の綱渡りもあった由。今回はそれを見ることは出来なかった。廃絶したのかあるいは今年は偶々無理だったのか。

b)朝光寺鬼追
場所加東郡社町畑 朝光寺
祭名八十八夜法要鬼踊(鬼追踊)
祭礼日5月2日(現在5月5日)

八十八夜法要とあるが、明治初年までは修正会追儺式であったらしい。和漢三才図会に「法道仙人開基寺在播州皆修追儺会見加東郡朝光寺僧蒙鬼面被彩服携炬斧剣錫杖等別被鳥冑人如追彼鬼鬼迯去」とある。鬼踊はもと本堂外陣で行われた。本堂が国宝に指定せられ、修築後火気を禁じたので鬼踊は堂前の広庭に移ったが、鬼の反閇が効かなくなり、一時は庭に床を並べても見たがそれも永続きせず、結局庭で踊ることになっている。(『兵庫県民俗芸能誌』より)

踊りは住吉明神と四匹の鬼によって行われる。本堂内での大般若経転読の後、一番の踊りが始まる。一番目の踊り(「祓の踊」)は、まず住吉明神が登場して、松明を振り踊る。続いて赤鬼が登場、住吉明神から松明を受け取り反閇を踏む。以下、斧を持った黒鬼、剣を持った青鬼、錫杖を持った小豆鬼が続く。二番目の踊りは四鬼同時に登場して反閇を踏み、順次退場していく。最後の三番目の踊りは「餅割」ともいう。赤鬼続いて青鬼が登場して、掛けられた鏡餅を斧で打ったり、松明であぶったりする所作を見せる。鬼踊終了後、鏡餅は見物人に分配される。

2005年5月5日快晴。山間にある朝光寺に到着する。朝光寺は、法道上人が開基と伝えられる寺である。境内前には川が流れ、近くに「つくばねの滝」がある。本堂前には広い舞台が設えられ、その廻りを素人のカメラマンが据えた三脚が取り囲んでいた。舞台も三脚も、喜多氏の写真には見えない風景である。違う事といえば、鬼踊が行われる日も、喜多氏が調査された頃とは変わって、5月5日になっている。

喜多氏の記録にあるとおり、大般若経の転読が済むと、鐘の音に合わせて住吉明神や四匹の鬼が順に現れて鬼踊が続く。時折アナウンスがはさまれる。鐘の音だけを伴奏に、ゆったりと単調に続く鬼踊は、現代人には退屈との配慮からであろうか。恐らくこれは最近に、始めたことなのであろう。三番目の踊りの前に、鬼達が舞台上に勢揃いして写真撮影のサービスをする。鬼に抱かれて大声を上げて泣く子供や、緊張した顔で鬼とのツーショットを撮って貰った後、ほっとした顔をする子供。そういえばこの日はこどもの日であった。鏡餅が分けられた後、餅蒔きがあり、鬼踊の行事は終了する。

c)太山寺練供養
場所神戸市垂水区伊川谷太山寺(現西区伊川谷町前開)
祭名練供養(二十五菩薩聖衆来迎引摂会)
祭礼日5月12日

仏教では念仏信者が死没するときは西方浄土から阿弥陀仏が観音、勢至以下数多の菩薩を連れて、信者を迎えに来るという信仰がある。『往生要集』の撰者であり、仏教美術に造詣の深かった源信の末法思想は当時の貴族階級の迎合するところとなって、絵画に彫刻に幾多の華麗な作品を残したが、これが更に具象化されて「迎え講」、「引接会」、「来迎会」或いは「練供養」と呼ばれて、庶民の信仰に浸潤して行ったのはずっと後世のことらしい。

太山寺本堂に向かって境内左側に阿弥陀堂がある。(中略)本尊は丈六の阿弥陀如来、当日堂前正面に流灌頂棚をつくる。住職の回向があって、仏前で読経のあと練供養にうつる。練供養に用いる面は宝冠を戴いた菩薩面25の外に僧形面、宝冠のない仏面各1個の計27面(中略)。阿弥陀堂の畳敷の堂内で支度をする。金襴の法衣をつけ、白足袋、頭巾の上から面を被る。更に輪光を負い、これに天衣を添わせて胸に垂れ、面の裏に書いてある持物を持つ。

支度が整うと、堂内で臨時に雇った楽人によって、笙、篳篥、横笛、鞨鼓の演奏が始まり、1人宛1列に並んで正面より廻廊に出、手さぐりで、静に廻廊を右廻りに3周する。 (『兵庫県民俗芸能誌』より)

「練供養」は各地で見られる。有名な奈良の当麻寺や京都の泉涌寺は、寺の境内に舞台が設えられ、その上を二十五菩薩が練る。一方、太山寺の練供養は、上記の通り阿弥陀堂の廻廊を廻るため、見物する人々の間をぬうようにして菩薩達が通っていく。

d)海神社舟渡御
場所神戸市垂水区西垂水町海神社(現宮本町)
祭名秋祭り
祭礼日10月12日

当日午前11時頃、神社正面直前の海浜より神輿を御座船に移し、装いをこらした供奉船十数隻を従えて、海上西は舞子浜から東は須磨浦に至る、風光明媚な海岸沿いに巡幸し、午後3時頃還御になる。神功皇后筑紫より帰還の途、垂水の海上にて船進まず、海神三座を斎って、無事帰航したという伝説に基づく神事と伝えられている。

もとは神輿、本社発輦に先立ち、午前10時頃、神前で古伝の「歌上げ式」があったというが、これは現在行われていない。(『兵庫県民俗芸能誌』より)

2005年10月12日快晴。舟渡御に先がけ、午前9時より拝殿にて出御祭。その後、神輿は、揃いの法被を纏った担ぎ手によって社前の国道2号線を渡り、朱塗りの浜鳥居を経て垂水漁港へと進む。今年の担ぎ手は塩屋地区の青年。要所ごとに神輿唄が唄われ、掛け声にあわせて練る。紙吹雪。10時、神輿は鷺を象った御座船に移され、お稚児さんに見送られつつ出港。後には海神社の幟と大漁旗がはためく守衛船や漁船が続く。スピードを上げて湾を出てしまえば、防波堤に阻まれてその雄姿を望むことはできない。

喜多氏の調査当時には、沖ゆく船を眺めつつ浜辺でお重をかこんだことだろう。その頃は、全ての船が曳航されていたようだが、海上安全のため、現在では単独で走行している。

午後2時前帰港。そのまま商店街を練って夕刻宮入。夜にかけては、賑やかに東西二台の布団太鼓の出番。浜鳥居より順に宮入の後、威勢を競う街中での巡幸は、午後10時前、それぞれの太鼓倉に納まるまで続いた。

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テーマ(3)国指定の祭り ―車・上鴨川・三ッ山・ざんざこ―

古くから各地域で継承されてきた民俗芸能は、無形の民俗文化財である。特に貴重なものは、文化庁や都道府県の教育委員会が、重要無形文化財として指定し、その保存・継承を助成している。兵庫県の民俗芸能にも、文化庁により重要民俗無形文化財(国指定)、あるいは記録民俗無形文化財(国記録)に指定されているものが以下のようにある。

民俗芸能名指定年喜多氏の調査年
淡路人形浄瑠璃国指定(昭和51年)昭和45年
上鴨川住吉神社神事舞国指定(昭和52年)昭和35年より
但馬久谷の菖蒲綱引き国指定(平成元年)-
車大歳神社の翁舞国指定(平成12年)昭和46年より
播磨総社一ツ山・三ツ山神事国記録(昭和34年)昭和48年
大杉ざんざこ踊国記録(昭和41年)昭和46年
阿万風流大踊小踊国記録(昭和47年)昭和46年
青垣の翁三番叟国記録(昭和49年)昭和45年
坂越の船祭り国記録(平成4年)昭和45年
養父のネッテイ相撲国記録(平成15年)-
波々伯部神社おやま行事国記録(平成17年)昭和45年

喜多氏が、兵庫県の民俗芸能を集中して調査されたのは、昭和40年代に入ってからである。それは、兵庫県内の民俗芸能が、文化財として注目されるようになる、僅かながら以前である。今回は、喜多氏の調査された兵庫の民俗芸能の中から、国により指定された重要民俗無形文化財二つ、記録民俗無形文化財二つを展示している。

a)車大歳神社の翁舞
場所神戸市須磨区車 大歳神社
祭名車大歳神社御面式
祭礼日1月14日

大歳神社の御神体は3つの能面で、「御能式」ともいう。毎年頭家を定めて御神体を屋敷(宿という)内に迎える神事で、頭人にとっては生涯一度の晴の行事であった。1月14日御神体を迎えた宿では親戚をはじめ、村中の人々を招いて盛大な祝宴を張り、あらかじめ頼んでおいた人々に翁舞を舞ってもらった後、列をつくって神社に参拝、殿上で再び翁舞を舞った。車では、御面式の宿を勤めないうちは、隠居することができなかったという。

翁舞では、最初に露払の舞がある。ついで太夫が面箱を開き、御神体の白尉面を着けて舞う。そして、三番叟が一度立って舞った後、黒尉面を着け、鈴を受け取って再び舞う。最後に、太夫が父尉(ちちのじょう)の面に着け換えて、舞を見せる。

父尉の舞がある翁舞は、上鴨川住吉神社の神事舞にも見られるが、古い翁舞の形式を残したもので、大変珍しい。平成12年、国指定重要無形民俗文化財に指定された。(参考文献『兵庫県民俗芸能誌』)

b)上鴨川住吉神社の神事舞
場所加東郡社町上鴨川 住吉神社
祭名住吉神社秋祭
祭礼日10月4、5日

4日夜の神事を「宵宮」、五日の神事を「昼宮」と呼び、村の若い衆が神事舞を舞う。宵宮では、素袍姿の若い衆たちの盃事のあと、赤々と燃え上がる斎燈を背景に、拝殿で神楽が奉納される。続いて「リョンサンの舞」「獅子舞」「田楽」「イリマイ(扇の舞)」といった芸能(「ゴホントウ」と呼ばれる)が次々と演じられる。翌日の昼宮は、「リョンサンの舞」「田楽」などが舞われた後、「いど」「万歳楽」「六ぶん」「翁」「宝物」「冠者」「父の尉」から成る翁舞が奉納される。

この祭礼は、上鴨川在住の氏子中、長男のみで構成された「宮座」によって、厳格に伝承されている。宮座の若い衆は、各年次ごとに割り当てられた宮座の勤めを修得しつつ、村人としての生活基準を身につけていく。昭和52年、国指定重要無形民俗文化財に指定された。(参考文献『兵庫県民俗芸能誌』)

c)三ッ山神事
場所姫路市 射楯兵主神社
祭名射楯兵主神社三ツ山祭
祭礼日4月8日より晴天7日間

21年目毎に行われる臨時祭で、神社の神門前に造られた、高さ約12メートルの3つの造山(二色山・五色山・小袖山)に諸神を迎え、神事が執り行われる。

三ツ山は、播磨国一の宮・伊和神社周辺にある、白倉山・花咲山・高畑山をかたどったものという伝承がある。色鮮やかな布で造られた造山には、造人形が取り付けられ、花のついた木の枝が美しく飾られる。

16世紀には始まっていた神事であり、その間に、御神能や練物、多数の造り物も出るようになっていった。しかし、近年では、太平洋戦争時の混乱や戦後の市街化などによって、縮小傾向にある。

61年目毎には「一ツ山の神事」が行われ、このときには造山が一つ出ることになっている。昭和34年、あわせて国選択無形民俗文化財に指定された。(参考文献『兵庫県民俗芸能誌』)

d)大杉・若杉のざんざこ踊り
場所旧養父郡大屋町大杉二宮神社・若杉三社神社(現養父市)
祭名大杉のざんざこ踊・若杉のざんざか踊
祭礼日8月16日

ざんざこ踊(ざんざか踊)は、2本の支え棒で締太鼓を腹に平らに固定し、色とりどりの見事な神籬を負い、或いは花笠を戴いて、歌い踊る「太鼓踊」である。氏神を始め、村中の要所要所を巡回して踊る行事で、ざんざこ踊の名称は、太鼓の鈍い音色から来ているらしい。

大杉のざんざこ踊は、「鬼踊」とも呼ばれている。大杉のざんざこ踊をリードするのは、数人の「音頭」による歌と、1人の「新発意」の拍子である。これに合わせて、5色の大幣を背負った「中踊」4人と、3、40人の「側踊」が、大きな輪になって踊る。昭和48年、国選択無形民俗文化財に指定された。

同じ日に、若杉でも太鼓踊が行われるが、こちらは「ざんざか踊」と称し、別名を「姫踊」という。花笠を被った「太鼓」四人を中心に、「団扇」「中踊」といった役の人々が、歌に合わせて踊りを見せる。(参考文献『兵庫県民俗芸能誌』)

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調査記録年表について

喜多氏の民俗芸能調査は、兵庫県に限らず日本全国に渡っている。その範囲の広さは、本学に寄贈された調査記録ノート27冊(昭和35年3月から同53年12月)、スライドのフレーム、ネガアルバム、現像された写真の裏面などに記された情報から窺い知ることが出来る。ここに示す年表は、こうした情報を拾い集めて作成したものである。

調査地の地名や民俗芸能の名称は、喜多氏による記述をそのまま記したため、現在の地名とは齟齬をきたすもの、祭りの名称としては不適当なものも含まれていることをあらかじめお断りしておく。また、カラー写真に関する情報については調査中のため未完とした。喜多氏の調査が広範囲に及んだことが分かるように、各都道府県を七つのブロックで以下の通り色分けしている。

  • 北海道・東北地方ー緑
  • 関東地方ーオレンジ
  • 中部地方ー黄緑 
  • 近畿地方ー赤(ただし、兵庫県のみピンク)
  • 中国地方ー藤色 
  • 四国地方ー水色
  • 九州地方
  • 沖縄ー青 

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学校法人行吉学園

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